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燃えよ剣42

发布日期:2022-10-20 12-13-19文章来源:易学国际教育文章原创作者:小易浏览次数:83
信息摘要:
鳥羽伏見の戦い・その一数日前、筆者は、歳三がいた伏見奉行所あとを訪ねるために、京都から伏見街道を南下してみた。途中、「御香宮《ごこうのみや》」という広大な神域をもつ神社がある。道路の西側に森をなしている。そのわずかに南、御香宮よりおそらく十倍はひろかったであろう地域に、「伏見奉...
鳥羽伏見の戦い・その一
数日前、筆者は、歳三がいた伏見奉行所あとを訪ねるために、京都から伏見街道を南下してみた。 途中、 「御香宮《ごこうのみや》」 という広大な神域をもつ神社がある。道路の西側に森をなしている。 そのわずかに南、御香宮よりおそらく十倍はひろかったであろう地域に、 「伏見奉行所」 は、塀をめぐらせていた。 「いま、どうなっています」 と、御香宮の神主さんにきくと、 「団地どすわ」 と、吐きすてるようにいった。 なるほど現場に立ってみると、奉行所があった場所は、ブルドーザーできれいにならされて、星型建築や、羊羹型《ようかんがた》の建物がたっている。 「むかし、といってもほんの最近までですが、この路傍十坪ほどの敷地に、立派な自然石で鳥羽伏見の戦いの幕軍戦死者の慰霊塔がありました。その子孫の人たちがたてたもので、明治以来、私のほうのお宮で、毎年、祭祀をしておりました。いまは取りはらわれ、敷地も売られてしまって跡形もございません」 私は、ぼう然と、団地風景を見渡した。 日本歴史は関ケ原でまがり、さらに鳥羽伏見の戦いでまがった。 その場所にひとかけらの碑もなく、ただ団地は、見渡すかぎり、干し物の列である。 「暑うおすな」 と、偶然、知人から声をかけられた。 伏見の葭島《よしじま》で川魚を獲っているおやじで、京都の老人らしく、錆《さ》びさびとした声を出す。 「|あの《ヽヽ》年《ヽ》は、寒おしたそうどすな」 と、老人は、曾祖母から聞きつたえているはなしをしてくれた。 「お奉行所のそばに、小|ぶな《ヽヽ》などがいる水溜りがおして、そこに暮から正月にかけて一寸ほどの氷が張っていたそうどす」
 近藤が墨染《すみぞめ》で狙撃されたのは、その水溜りに厚氷が張っていたであろう慶応三年十二月十八日である。 医者にみせると、意外に重傷で、肩胛骨にひびが入っていた。 「痛むだろう」 と、歳三はいった。 鉛弾《えんだん》が、肉に食い入り、弾がこなごなに砕けたらしく、肩肉が、コブシほどの面積にわたって、ぐさぐさに潰れている。血がとめどもなく出る。白布を一夜に何度か取りかえたが、すぐ真赤になった。 「なあに、大したこたねえ」 近藤は、苦痛に堪えていた。 これだけの傷で落馬しなかったとは、さすがは近藤であると歳三は、舌を巻いた。 「——歳よ」 と、近藤はいった。 「新選組を頼む」 「ああ」 歳三はうなずいた。多摩川べりで遊んだ餓鬼のころからの仲である。ただそのひとことで、指揮権の移譲は済んだ。 そのあと、近藤のからだに高熱が襲った。一週間ほど、食事もろくに摂《と》れず、うとうとと眼を閉じたりあけたりするだけの状態だった。 (膿《う》まねばよいが) と歳三は案じていたが、血にそろそろ黄色いものがまじりはじめている。 大坂城にいる将軍慶喜からも見舞いの使者がきた。 「大坂へ来い」 という伝言である。伏見にはろくな外科がいない。幸い、大坂城には天下の名医といわれた将軍の侍医松本良順がいる。
 松本良順は、近藤より二つ年上の三十六歳。幕府の医官松本家の養子になり、長崎で蘭医ポンペから西洋医術を学び、まだ書生のころ長崎で日本最初の洋式病院(当時長崎養生所という名称。いまの長崎大学医学部の前身である)をたて、医者には惜しいほどの政治力を発揮した。のち幕府侍医となり、法眼《ほうげん》の位をもらった。非常な秀才だが、血の気も多かったため、幕府瓦解後は、各地に転戦した。維新後そのため一時投獄されていたが、新政府がかれを必要としたため出仕し、名を順とあらためた。陸軍軍医制度をつくりあげ、陸軍最初の軍医総監(当時、軍医頭という名称)になった。七十六歳まで生き、晩年、男爵をおくられた。今日われわれの生活とのつながりでは、海水浴を最初に奨励啓蒙した人で、たしか逗子《ずし》だったかにはじめて海水浴場をひらいた。当時の日本人は、海で泳いで遊ぶなどは奇想天外なこととしていた。 この松本良順(順)は、近藤を大坂城で治療してから新選組の非常な後援者となり、いま東京の板橋駅東口にある近藤、土方の連名の碑もこの松本良順の揮毫するところで、晩年まで新選組のことをよく物語った。明治の顕官のなかでは、おそらく唯一の新選組同情者であったといっていいであろう。
 近藤は、伏見から幕府の御用船で大坂へ送られることになった。そして病臥中の沖田総司も。 その前夜。—— 「歳、お雪というそうだな」 と、不意にいった。この「歳」という男は若いころから、自分の情事について一切口にしたがらない性癖を近藤は知っていたが、この夜はかれのほうから話題にした。 「そう。——雪」 と、歳三は無表情でいった。 「なぜ歳。京を去る夜、そういう女がいるのに、会いに行ってやらなかった」 「|ない《ヽヽ》からね」 歳三は、あわてて手短くいった。 「なにが|ない《ヽヽ》んだ」 と、近藤は鈍感。 「会う必要が、さ」 「必要がないのかね。家の始末とか、女への手当とか」 と、近藤がいう。実をいえば、歳三は手紙を町飛脚にもたせてやるときに、自分の手もとにあった二百両の金子のうち、五十両だけをのこして、お雪にこっそり届けてある。 しかしそれは、歳三の気持のなかでは「手当」ではない。 お雪は歳三の大事な恋人であった。女房、妾、といったような、歳三にいわせれば|俗《ヽ》な存在ではないのである。 「近藤さん。まちがってもらってはこまるがお雪は妾じゃありませんよ」 「ふむ?」 近藤の頭では、理解しにくい。 「妾でないならば、なんだ」 「恋人だ」 と、現代《いま》ならばそういう手軽で便利でわりあい的確な語彙《ごい》があるから、歳三はそう答えたであろう。しかし、 「大事なひとさ、私の。——」 と、そういっただけだった。 「大事なひとなら、なぜ会わない」 「さあ」 歳三は、これ以上この話題をつづけたくない、といったふうのにがい顔をした。女房のほかに妾が三人もある近藤のような型の男には、いっても無駄であろう。 その夜、近藤はひどく気の弱い話をした。 「時勢は変わってしまった」 というのである。いずれ天朝中心の世の中になるのであろう。そのとき、自分は賊軍にはなりたくない、といった。 「近藤さん、もうよせよ」 と、歳三は何度もとめた。体に障《さわ》る。さわるだけではなく、近藤という男の弱点がみえてきて、歳三はいやなのだ。 (このひとはやはり英雄ではある) と、歳三はおもっていたが、しかしながらそれはあくまでも時流に乗り、勢いに乗ったときだけの英雄である。勢いに乗れば、実力の二倍にも三倍にも能力の発揮できる男なのだ。 が、頽勢《たいせい》によわい。 情勢が自分に非になり、足もとが崩れはじめてくると、近藤は実力以下の人間になる。 (凧《たこ》のようなものだ。順風ならば、風にもちあげられ自分も風に乗り、おだてに乗り、どこまでもあがってゆく大凧だが、しかし一転風がなくなれば地に舞いおちてしまう) そういう型であって、これは非難すべきものではない。 (しかし) おれはちがう、と歳三は思っていた。 むしろ頽勢になればなるほど、土方歳三はつよくなる。 本来、風に乗っている凧ではない。 自力で飛んでいる鳥である。 と、自分を歳三は評価していた。すくなくとも、今後そうありたいと思っている。 (おれは翼のつづくかぎりどこまでも飛ぶぞ) と思っていた。 翌日、近藤と沖田は護送された。
大坂は、幕軍の大拠点である。 かれらは、といってもとくに会津藩、桑名藩という両松平家(藩主は兄弟)が急先鋒であったが、——京都で少年天皇を擁して、ほしいままな策謀を行なっている薩摩藩に対し、もはや開戦せねばおさまらぬほどの憤激をもっていた。 慶喜はすでに将軍職を辞し、家康以来の内大臣の官位も返上し、京からはるか十三里の大坂で、 「謹慎」 しているにもかかわらず、こんどは途方もない難題をもちかけてきた。幕府の直轄領三百万石を朝廷に返上せよ、という。 すでに慶喜は一大名の位置におちた。 そのうえ、何の罪あって所領を返上せよというのであろう。大名が所領を返上せねばならぬというのなら、薩摩も長州も土佐も芸州も、そして三百諸侯も、そろって同列に返上すべきである。が、それは、触れない。 慶喜だけに返上せよという。 無茶である。 理屈もなにもあったものではなく、これには、京都にあって薩摩とともに天子の輔佐をしている、土佐、越前、芸州の諸侯も、猛反対した。 が、公卿の岩倉|具視《ともみ》、薩摩藩周旋方大久保一蔵(利通)が、たった二人で「少数意見」を通そうとして八面六臂《はちめんろつぴ》の活躍をしつつある。 大久保の思案は、あくまで、 「徳川家討滅」 にあった。徳川家をその兵力と権威のまま残しては、薩長が考えている「維新」は打開しないのである。古来、戦争手段によらざる革命というものはありえない。 だから討つ。 討つには、名目が要る。稀世の策謀家だった大久保一蔵は、大坂城の徳川慶喜に領土返上という難題をもってせまり、もし承諾しなければ、朝敵として討つ。そのつもりで対朝廷工作をすすめていた。 が、公卿はその案に冷淡。 土佐侯をはじめとする親朝廷派の諸侯も、薩摩方式の「革命」には反対である。おそらく、当時、全国の武士に世論調査をしても、その九割九分までは、むしろ、土佐案か会津藩の徳川家温存方式に賛成したであろう。なぜならば人間はたれしも現状が急変することを好まない。が革命は少数意見が優勢な武力をにぎった場合に成立するものだ。世論、もしくはいわゆる正論、などは、革命をする側にとっては屁のようなものである。 その|悪例《ヽヽ》は、徳川家の祖・家康自身が残している。二百数十年前、すでに大坂で七十余万石の大名の位置に堕《お》ちていた豊臣家をほろぼすために、あらゆる無理難題を思いついては押しつけ、ついに、豊臣家が起たざるを得ないようにして大坂冬ノ陣、夏ノ陣をおこし、ついに討滅してしまった。 その宿命の城に、徳川家最後の将軍慶喜がいる。 慶喜は、知識人である。水戸家から出たために、尊王論者でもあった。かれは、後世、朝敵の名をのこすことを恐れた。慶喜がもし家康、またはそれ以前の英雄ならば、幕府の軍事力をあげて抗戦したであろう。慶喜の不幸は、水戸史観の徒であるということであった。水戸史観は、史上の英傑を「朝敵」と「忠臣」に分類した史学である。朝敵にはなりたくなかったであろう。 それが、慶喜の態度を弱くした。 が、会津藩と一部の幕臣は強硬である。薩摩討つべし、と慶喜にせまった。 ついに、 「討薩表《とうさつひよう》」 をかかげ、天子に強訴《ごうそ》する、というかたちをとって大軍を京都に進めることになった。 幕府側は、薩摩側の挑戦にみごとに乗ったのである。その先例は、豊臣秀頼を挑発してほろぼした家康にある。 幕軍(正確には徳川軍)は、慶応三年十二月の暮、老中格松平|正質《まさただ》を総督として、諸隊を部署した。 その予備隊は数万。進撃部隊は一万六千四百人という大軍であった。 ——これを迎えうつ京都側は。 兵力いまだにわからないが、おそらく五千人はなかったであろう。 兵数からみれば、幕軍のがわが、圧倒的に優勢である。
「この戦さは勝つ」 と歳三は信じた。 「いいか、諸君。——」 と、歳三は隊士を集めていった。 「おらァ、子供のときからずいぶんと喧嘩をしてきた。喧嘩てのは、おっぱじめるとき、すでにわが命ァない、と思うことだ。死んだ、と思いこむことだ。そうすれば勝つ」 が、内心、 (勝てるかな) という疑惧がある。この疑惧のたった一つの理由は、慶喜という人物である。 幕軍が、討薩表(陳情書)をかかげて大坂を出発するというのはいいが、その陣頭になぜ慶喜が立たない。 慶喜は大坂城に腰をすえたままである。しかも姿勢はおよそ戦闘的ではなく、婦女子のように|恭順《ヽヽ》しているだけではないか。 (わるい卦《け》だよ) とおもうのだ。 大坂夏ノ陣の軍談は、歳三は諳《そら》んずるほどにおぼえている。 総大将の豊臣秀頼は、ついに一歩も大坂城を出なかった。四天王寺方面で難戦苦闘している真田幸村は、何度か息子の大助を使者にして、 「御大将ご出馬あれ」 と、懇請した。大将が出れば、士卒はふるい、倍の力を出すものである。が、秀頼は、敵の家康が、七十余歳の老齢で駿府城からはるばると野戦軍の陣頭に立ってやってきているのに、ついに出なかった。 (それに似ている) ところも、大坂城。 (わるい卦だ) とおもったのは、それである。
 歳三は、毎日、望楼にのぼっている。 この奉行所の北隣り、といっていいほど眼と鼻のむこうに、御香宮があるのだ。 そこに薩摩兵が屯営している。藩主の縁族島津式部を司令官とし、兵力八百。 参謀は、吉井|友実《ともざね》(通称幸輔。のち枢密顧問官、伯爵)である。 この幸輔を、歳三も知っている。西郷、大久保につぐ薩摩藩の切れ者で、早くから侮幕、倒幕運動をやっていた男だ。 (幸輔を斬っておけばよかった) 歳三は、そう思った。が、幕府、会津藩の外交方針として、薩摩派をあくまでも刺戟しないようにしてきたため、ついに斬れなかった。 開戦となれば、まっさきにこの御香宮の薩摩隊八百と交戦することになるだろう。 新選組は百五十名。 ほかに、この奉行所に同宿している幕軍としては、城《じよう》和泉守がひきいる「幕府歩兵」千人がいる。 みな、|だん《ヽヽ》ぶく《ヽヽ》ろ《ヽ》を着て、洋式銃をもち、仏式調練をうけた連中である。 しかし、あてにはならない。 江戸、大坂の庶人から募集した連中で、やくざ者が多く、平素は民家に押し入って物を掠《かす》めたり、娘を犯したりして威張りちらしているが、いったん戦さになればどうであろう。 (たよるは自力、と思え) と、歳三はそう覚悟している。新選組、それもしぼってみれば、江戸から京都にかけて苦楽を共にした二十人内外が、おそらく奮迅のはたらきをするであろう。 (いつ、はじまるか) 歳三は本来、眼ばかり光った土色の顔の男だが、ここ数日来、ひどく血色がいい。 生得《しようとく》の喧嘩ずきなのだ。 それに、たとえ、一戦二戦に敗れても、このさき百年でも喧嘩をつづけてやるはらはある。 (いまにみろ) 歳三は、ふしぎと心がおどった。どういうことであろう、——自分の人生はこれからだ、というえたいの知れぬ喜悦がわきあがってくるのである。多摩川べりで喧嘩にあけくれをしていた少年の歳三が、いま歴史的な大喧嘩をやろうとしている。 その昂奮かもしれない。 やがて暮も押しつまり、年が明けた。 明治元年。
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